タンザニアの英雄、フィルバート・バイ氏インタビュー(2/4)

  2002年8月8日 
場所:フィルバート・バイ学校




1. 世界記録までの道のり
2. 世界新記録達成の瞬間
3. タンザニアに野球が普及しなかった理由
4. フィルバート・バイ学校

2.世界新記録達成の瞬間

Q15. レース展開はどうでしたか?
ザンビ: バイは、計画どおり、スタートと同時に飛び出し、一気に70m全力疾走しました。そして、そのまま1周目、独走。2周目も独走。3周目に入ると、ジョン・ウォーカーやマイク・ボイ、ベン・ジプチョーも走りこんできて、観客は総立ちになりました。
4周目、バイは、さらに走りこんできた2人に一瞬視線を送りましたが、その時以外は一切振り向かず、1500mを1位で走りぬきました。

Q16. 記録を教えてください。
ザンビ: バイは3分32秒16、もちろん世界新記録です。そして、2位にジョン・ウォーカーは3分32秒52。実は、これも世界記録だったのです。だから、ジョン・ウォーカーは、公約どおり世界新記録を出しながらも、2位という結果に終ったのです。3位はベン・ジプチョーでした。

Q17. それまでの世界記録を教えてください。
ザンビ: 1967年にアメリカのジム・ライアンが出した3分33秒01が世界記録でした。

Q18. バイさんの記録は、いつまで保持されたのですか?
バイ: 1979年に、イギリスのセバスチャン・コー(3分32秒1)に破られるまで、5年間保持しました。
ザンビ: 世界記録としては、5年間でしたが、このバイの記録は、コモンウェルス大会の中では、2002年の今でも破られていないんですよ。

Q19. えっ28年たった今でも、コモンウェルス大会記録なんですか? 本当にすごい記録だったのですね。
ザンビ: 記録ももちろんですが、バイの走りは、本当にすごかったですよ。私は、自分でこの作戦を指示しておきながら、バイが途中で死んでしまうんじゃないかと思ったほどです。でも、世界記録は、こうやって生死をかけるほどの自分との勝負の中で生まれるものだと思います。

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* 付録: 1974年のコモンウェルス大会に、それぞれ男子マラソン、女子800m走の選手として参加し、この歴史的瞬間を見たフセイン・ジュマさん、ムィンガ・ムワンジャカさんにも、後日、それぞれにこのレースの模様を語っていただいたので、ここに加えます。

フセイン: 最初にバイが飛び出したときは、やったーと思ったが、途中で失速してしまうだろう、無謀な走りだなと思った。でも、1周目、2周目と独走し、3周目になって周りが追い上げても失速しないバイを見て、これはいけると思ったよ。それに、バイの負けん気の強さを知っていたから、バイなら走りきると、3周目で確信したんだ。
俺はバイがスタートダッシュをした時から、立ち上がって声援していたけど、3周目からは、客は総立ちだったよ。バイの応援? そうじゃないさ。みんな地元ニュージーランドのジョン・ウォーカーを応援していたのさ。すごかったよ。「ジョン! ジョン!」ていう声が会場に響き渡っていたよ。
俺は、世界記録樹立のレースをこの眼で見ることができた。そして、その世界新記録をタンザニア人のバイが出した。それは、あのレースに立ち会った観客の受けた感動の2倍だっただろうね。なんと言っても、俺と同じタンザニア人が世界記録を樹立したんだからね。
ムィンガ: 私は当時14歳で、チーム最年少だったのですが、このレースに立ち会えたことは、タンザニア人としての一生の誇りですね。でも、バイがスタートでダッシュをかけたときは、正直言って心配でした。1500mの基本を無視した走りでしたからね。



3周目からピッチを上げてきたジョン・ウォーカーが、4周目になってさらに追い上げてきて、文字どおりのデッドヒートになりましたが、バイは一度もトップを譲りませんでした。私はとにかく無我夢中で応援しました。そのままバイが、1位でゴールを駆け抜けたときの瞬間を、今もはっきり思い出すことができますよ。
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Q20. ザンビさんをはじめ、観ている人々は、バイさんの走りに驚嘆しながらも、途中で失速することを心配していたようですが、ご本人のバイさんは、いかがでしたか?
バイ: そうですね。私には、1500mを走りぬく自信がありました。自信がなければ、スタートからダッシュをかけるなど、いくらコーチに指示されたってできるものではありませんからね。
世界大会に出場するからには、タンザニアと自分のために、絶対に金メダルを取りたいと思っていましたから。そのためには、呼吸が苦しいことなんて当然のことだと思っていましたよ。世界記録とは、それぐらいしなくては達成できないものです。

Q21. バイさんの世界記録樹立後の影響はいかがでしたか?
ザンビ: その当時まで、タンザニアは無名でしたから、「タンザニアのバイが、優勝候補のニュージーランドのジョン・ウォーカーを破って世界記録を出した」というニュースで持ちきりになっても、報道陣自身、「タンザニア」がどこにあるのか把握していなくて、白人の国である(オーストラリアの)「タスマニア」(地方)と間違えて報道する人までいたほどでした。

Q22. そんなにタンザニアという国は、知られていなかったのですか?
ザンビ: 何しろ「アフリカ」が一つの国だと思っている人もいる時代ですからね。無理もないでしょう。つまり、名のないアフリカの国「タンザニア」を、世界中の人が認識した初めての出来事だったというわけです。そういう意味で、バイの成し遂げたことは、タンザニアにとって本当に大きな出来事だったのです。
スポーツの威力はすごいものだなあと、私はあのとき心から思いましたよ。きのうまで、タンザニアのタの字も知らなかった何万人という人々が、バイの世界新記録樹立によって、タンザニアという国を知り、バイという選手の顔を覚え、たくさんの人が応援してくれるようになるのですからね。

Q23. バイさんご自身の周りの影響はいかがでしたか?
バイ: そうですね。タンザニアに帰ってからも、知らない人が私を見ると、「バイ!」と名前を呼んで、「よくやった。おめでとう!」と言ってくれました。
また、この大会以来、国際大会で外国に行くたびに、各国のプレーヤーが話し掛けてくるようになり、たくさん友達ができました。もちろん、今はもう現役を引退して、後進を育てている人ばかりですけどね。
今年マンチェスターで開かれたコモンウェルス大会でも、ずいぶん懐かしい再会がありましたよ。そういうとき、陸上をやっていてよかったなあと思いますね。

1. 世界記録までの道のり
2. 世界新記録達成の瞬間
3. タンザニアに野球が普及しなかった理由
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