タンザニアの英雄、フィルバート・バイ氏インタビュー(1/4)

  2002年8月8日 
場所:フィルバート・バイ学校



1. 世界記録までの道のり
2. 世界新記録達成の瞬間
3. タンザニアに野球が普及しなかった理由
4. フィルバート・バイ学校


今回のインタビューコーナーのお客様は、タンザニアの人なら誰もが知っている陸上界のヒーロー、フィルバート・バイ氏です。

日本では、タンザニアというと、誰もがイカンガーさん(*インタビュー記事へ)を思い浮かべるでしょうが、実はタンザニア国内の中では、イカンガーさんの名前はそれほど知られていません。

タンザニアでは、外国で誰がどんなに活躍していても、ほとんど報道されません。世界中が注目するオリンピックでメダルを取るか、世界記録を打ち立てて、タンザニア国内でも大騒ぎをされない限り、タンザニア国民には知られずに終わってしまうという状況だからです。

そういう中、バイ氏は、1974年コモンウェルス大会(開催地ニュージーランド・クリストチャーチ)で、1500m3分32秒2という世界記録を打ち立て、世界の陸上界にタンザニアをいう国名を大きくアピールしました。そして、モスクワオリンピックでも3000m障害物競走で、銀メダルをタンザニアに持ち帰っており、(モントリオールオリンピックは、ボイコットのため不参加)今でも大人から子供まで、名前を知っていて、国民栄誉賞まで受賞している、文字どおりタンザニアのヒーローです。

実は、私自身、バイ氏と面識はありながらも、全然彼の記録について知らなかったのですが、今年マンチェスターで開かれたコモンウェルス大会(英連邦競技大会:*便り50)に、タンザニアチームの一員として参加する中で、大会ニュースのタンザニア紹介欄には、必ず「コモンウェルス大会で世界記録を出した偉大な1500m走者フィルバート・バイがいるタンザニア」という賛辞が載っていたり、今でも世界の陸上界の重鎮たちがバイ氏に会うために、タンザニア宿舎を訪ねてきたりといったことを目の当たりにして、初めて「このおじさん、普通の人かと思っていたけど、すごい記録の持ち主だったんだ」と気づいた次第です。

バイ氏は、現在、タンザニアオリンピック委員会の技術審査委員長。そして、もう一つフィルバート・バイ学校の校長先生という顔を持ち、今も活躍中です。今回は、バイ氏と当時の陸上コーチで、現在タンザニアオリンピック委員会書記長のエルネスト・ザンビ氏にお話を伺いました。



1.世界新記録までの道のり

Q1. まずは、それぞれ、お名前、生年月日、血液型を教えてください。
バイ: 名前は、フィルバート・バイ。 1953年6月22日生まれで、血液型はB型です。
ザンビ: 名前は、エルネスト・ザンビ。1938年1月27日生まれで、血液型は0型です。

Q2. 出身地はどこですか?
バイ: カラトゥ地方出身です。(アリューシャ付近)
ザンビ: ムベア地方出身です。

Q3. 好きな食べ物は?
バイ: ウガリが一番好きです。
ザンビ: 私は、鳥カレーとライス。揚げ魚も好きです。

Q4. バイさんの現役時代の自己最高記録を教えてください。
バイ: 
800m走 1分45秒03
1500m走 3分32秒16
3000m走 7分39秒34
3000m障害物走 8分12秒05
5000m走 13分18秒02
10000m走 28分13秒60
ハーフマラソン 1時間3分45秒
マラソン 2時間16分22秒

Q5. コモンウェルス大会出場までのことをお話してください。
バイ: 田舎から出てきて、1970年にタンザニア軍隊に入り、ウコンガ地方に配属されました。学生時代は、陸上と並行して、サッカーもしていましたが、相手とぶつかったり、怪我が多いのが嫌で、一人で走れる陸上を選びました。
初めは800M走者としてやっていましたが、ザンビ氏のアドバイスを受けて、1500m走に切り替えたところ、1973年に、ラゴスで開かれたアフリカ大会で1位になり、1974年のコモンウェルス大会(開催地は、ニュージーランドのクリストチャーチ)への出場を手にしました。

Q6. ザンビさんは、バイ氏を見て、どうして1500m走への転向を薦めたのですか?



ザンビ: 800m走には、強いキック力が求められますが、バイにはそのキック力が足りませんでした。1500m走では、キック力よりも持久力とレース展開の戦略が求められます。バイは、頭がよく、考えながら走ることのできる選手でしたから、1500mに転向して、私と一緒に戦略を立てながら走ってみないかと声をかけたのです。

Q7. バイさんの自主トレのすごさは、今でも語り草ですが、一体どんな練習をされていたのですか?
バイ: 私は当時軍人でしたから、毎日軍隊の送迎バスが家まで迎えに来て、そこから遠く離れたキャンプ地まで、他の軍人を乗せながら走っていました。私は、毎日バスに乗らず、そのバスと競争しながらキャンプ地に行きました。それが私の自主トレでした。

Q8. バスと競争ですか? その勝負はどちらが優勢だったのですか?
バイ: もちろんバスがスピードを出せば、バスのほうが速いですよ。でも、途中で何度も軍人をピックアップするために停まりますから、その間に追いつき、追い越し、といった具合でしたね。

Q9. バスに乗っている他の人の反応は、どうでしたか?
バイ: 私が世界記録を樹立してからは、応援してくれるようになりましたが、私が無名の頃は、バスと一緒に本気で走っている、バカモノだと思っていたようです(笑)。

Q10. それにしても、厳しい練習を自分に課されたのですね。
バイ: 練習とは、本来自分からやるものです。コーチは、アドバイスをくれて、選手を高めてくれる頼もしい存在ですが、試合では一人で走るものですからね。結局自分で自分と向き合って、結果を出していかなくてはいけない。だから、練習も、人から言われてやるものではなく、自分で自分のためにするものなのです。
ザンビ: バイの言うとおりです。バイは本当に一人で黙々と練習をするタイプでしたね。そして、イカンガーも人から言われてやるのではなく、常に自分から率先して厳しい練習をするタイプでした。
2人に共通していえるのは、自分が世界に出て走ることは、タンザニアを背負っているという自覚を持ち、全力を尽くして、タンザニアにメダルを持ち帰ることを、自分で自分に課していたことでしょう。そういう何が何でもという気持ちが、今の若いランナーには欠けていますね。

Q11. 1974年のコモンウェルス大会で、世界新記録を出したときのことを教えてください。
バイ: その大会では、ニュージーランドのジョン・ウォーカー、ケニアのベン・ジプチョー、マイク・ボイという1500m走の強豪が揃っていたので、誰もがそのうちの誰かが優勝すると予想していました。特にジョン・ウォーカーは、開催地であるニュージーランド人でしたし、彼も世界記録をねらっていると公言していましたからね。当時は、私のことなんて、誰もマークしていませんでしたよ。

Q12. バイさんも、世界記録を狙っていたのですか?
バイ: もちろん、そうです。しかし、世界記録を破るというのは、半端なことじゃないんですよ。いつも世界新記録が出るたびに、人は「もうこれ以上の記録は出ないんじゃないか」と思うものでしょう。それに、一緒に走る相手だって、自分と同じ様に努力をし、厳しい練習を重ねてきます。だから、普通のことをやっていては、絶対に勝てないし、まして新記録を達成することはできません。だから、私は普通ではない走りをしたのです。

Q13. 「普通ではない走り」について、詳しく教えてください。
バイ: 1500m走では、従来前半はフルスピードを出さず、後半からダッシュをかけるというのが基本の走りでした。しかし、普通の走り方をしていたら、勝てない。私は1500m走では「初めにスタートダッシュする奴はいない」という点に勝機をかけたのです。

Q14. ザンビさんは、コーチとしてずっと付き添っておられたそうですが、レースに入るまでの様子を教えてください。
ザンビ:当日、私はバイと開始30分前に会場入りしました。普通の試合では、開始2時間前には会場入りしてウォーミングアップをしますが、とにかくその日は、バイの集中力を高めることだけに努めました。だからわざと開始30分前に会場入りし、ぎりぎりまで会場の中も見せないで、とにかくスタートラインに立って、ピストルの音がしたら、ダッシュをかけるよう指示しました。



1. 世界記録までの道のり
2. 世界新記録達成の瞬間
3. タンザニアに野球が普及しなかった理由
4. フィルバート・バイ学校