タンザニア便り

便り86.世界柔道選手権大会 in カイロ〜24th World Judo Championships in Cairo〜

便り87.「タンザニア一決定戦!エンバシードクター柔道杯2005」



便り86.世界柔道選手権大会 in カイロ〜24th World Judo Championships in Cairo〜


☆cairoスタジアムにて

☆日本選手、アフリカ選手の活躍
☆伝説の柔道家、Mr.アントン・ヘーシンク
☆完全燃焼のすがすがしい笑顔〜阿武教子選手
☆フランスチームを育てて55年、粟津正倉氏



「世界柔道選手権大会 in カイロ」
〜World Judo Championships in Cairo〜


ジャンボ!アフリカフェフレンドの皆さん、お元気ですか?
ザンジバルは、1年で一番涼しい風から湿り気を帯びた風に変わり、日差しも日に日に増しています。これからは気合を入れないと夏ばてしそうな季節が始まります。

ところで、私達は、世界柔道選手権のため、カイロに行ってきました。
タンザニア、ザンジバルは、総選挙を10月31日控え、政情が不安定になっており、南アフリカ国際から帰国してしばらくしてからは、メンバーそれぞれ、柔道に集中できる状態ではなくなってしまったため、今回選手の参加は断念しましたが、IJF総会その他、柔道連盟代表としての参加でした。

cairoスタジアムにて

さて、24回世界柔道選手権大会は、試合場が5面もある、立派な設備のカイロスタジアムで開かれたのにも関わらず、エジプトでは、事前の宣伝はもちろん、開催中もまったく宣伝されていなかったようで、カイロ市民は、誰もどこでそんなことが行われているのか知らず、街にはポスター1枚張ってもいないという状態。

ですから、当然のごとく、会場にエジプト人の客はほとんどおらず、観客席にいるのは、各国の選手団と柔道関係者、そして、エジプト在住の日本人応援団と世界柔道ツアーでやってきた日本人応援団。会場に張り出されているスポンサー広告も、エジプトエアー1つを除いて、すべて日本のスポンサーで、まるで日本国内で世界選手権をやっているような、妙な感じがしました。

開会式は、世界各国の国旗を衣装に取り入れた若者達によるダンスや、色とりどりの衣装を組み合わせたエジプションダンスなど華やかでしたが、客席ががらがらなので、なんともさびしい限り。
私は、2003年に大阪で開かれた世界柔道選手権しか知らないので、外国で開かれる世界大会はこんなものなのかなと思っていたのですが、他国で開催された世界選手権に行ったことのある方々も、こんな世界選手権は始めてだと驚いていました。
もし、今回、日本人応援団が誰もいなかったら、観客面では、ほんとうにさびしい、盛り上がりのない世界大会になったことでしょう。


日本選手、アフリカ選手の活躍

とはいうものの、そういった外的なことを別にすれば、中身はやはり、柔道世界一を競う、見事な技の応酬が、予選から繰り広げられ、見ごたえたっぷりの大会でした。

日本選手の活躍は、テレビで十分報道されているでしょうが、個人的には、鈴木選手の貫禄を帯びた柔道、かっこよかったです。
重たい棟田選手を、一気に亀の子をひっくり返すようにぶん投げた、ロシアのミハイリン選手の怪力には驚きました。怪我から復帰して活躍する薪谷選手の姿は、感動でした。


ところで、今大会は、初めてのアフリカ大陸で開かれる世界柔道選手権大会ということで、関心を集めていたのですが、結局、アフリカ勢はごく少なく、15カ国ほどの参加でした。
登場しても、すぐに姿を消していくアフリカ勢の中において、開催国エジプトががんばっていましたが、メダルには届きませんでした。
その中で、私が、ひそかにアフリカのやわらちゃんと呼んでいるアルジェリアの女子48kg級のHaddad Soraya選手(写真下、青の柔道着)が、見事銅メダルに輝いたときは、思わず立ち上がって、大きな拍手を送りました。彼女とは、3年前のモーリシャス国際大会以来、何度か顔をあわせ、練習風景も見ていますが、チームで一番小さい体で、汗まみれになって、練習に励む姿がとても印象的でした。

畳を降りると、ジーンズに、野球帽をちょんとかぶった姿でにこにこしているかわいい女の子。ひとたび畳に上がると、練習のときから闘志むき出しの表情にがらりと変わる選手です。
結局アフリカ勢の中では、アルジェリアが、男子81kg級銀メダル1、女子48kg級銅メダル1、最終日に開かれた団体戦でも女子が、日本と並ぶ3位という快挙を遂げ、アフリカ柔道をアピールしてくれました。



伝説の柔道家、Mr.アントン・ヘーシンク

今大会で、出会った人の中で、とても心に残っているのは、オランダのアントン・へーシンク氏です。

初めて柔道が種目に取り入れらた、1964年の東京オリンピックで、日本の神永代表を破って金メダルに輝いたのが、この「オランダの巨人」こと、アントン・ヘーシンクさんでした。
元々、柔道は東京大会でのみ採用される種目だったのですが、外国人が金メダルを獲得したことで、その後世界の柔道熱が増し、そしてメキシコ大会では正式種目になったのだそうです。

ヘーシンク氏は、「東京オリンピックでの金メダルが、自分の人生と、オランダの柔道界を大きく変えました」と、IJF総会で発言していましたが、それだけではなく、世界の柔道家たちに大きな希望を与えたメダルだったと思います。

会場でお会いしたときに、ちょっとだけお話したのですが、「日本人は、礼儀正しくて、親切ですね」と日本をうんとほめてくださいましたよ。

記念写真をのリクエストにも「どうぞ、どうぞ」と日本語で快く応じてくださり、一緒に並んでパチリ。日本では背の高い方&とっても太めの私が、小柄に見えるほど、背が高くて、大きな大きな紳士でした。
今回のIJF総会で、2009年の世界柔道選手権大会は、へーシンクさんの国オランダで開かれることが決まりました。



阿武教子選手〜完全燃焼のすがすがしい笑顔〜

3度目のオリンピック挑戦で金メダルに輝き、花道を飾って引退された阿武教子さんとお話しする機会がありました。

とってもおだやかで優しい表情で試合を見つめる阿武さんに、「初めて観戦に回る世界大会は、いかがですか?」と尋ねると、「今までの世界選手権のときのことが、いろいろ重なり合って浮かんできますが、自分が今あの場所に立ちたいとは思いません。私の中で、完全燃焼できていますから」というさわやかな言葉が返ってきました。

阿武さんからは、「完全燃焼」という言葉が何度も出てきました
「オリンピックで負けたまま引退するのと、勝って引退するのでは、自分の中でまったく違います」「私は完全燃焼することができました」という言葉が印象的で、完全燃焼したという充実感が、彼女をこんなにも穏やかですがすがしい表情にさせているのだろうと思いました。

私は、日本からのビデオなどを見て、阿武選手が、まだあどけない笑顔でインタビューに答えていた高校時代から、個人的に応援していたので、もう時期はずれになってしまったけれど、「オリンピックでの優勝、おめでとうございました」と直接伝えることができて、とてもうれしかったです。



フランス柔道界を育てて55年、粟津正蔵氏

今大会では、会場の一番奥の席からじっと見つめる83歳の粟津正蔵氏の姿も見られました。
粟津氏は、1950年から55年間、フランスのナショナルチームを育ててきた、京都出身の柔道家で、粟津氏にとって、今のフランス選手達は全員お孫さんのような存在です。

「柔道は、正しい動作を伝えることが大切です。言葉を尽くして教えるものではありません。私がこの55年間やってきたのは、いかに柔道の正しい動作を伝えるか、その一点に尽きます」

とおっしゃる粟津氏、会場はがらがらで、前の方にも空席があるのも関わらず、最後尾の一番高い席に座っておられたので、その理由をお尋ねすると、
「高い場所から見ると、選手の動きだけではなく、大会運営に関わる全体の動きが見えます。選手だけではなく、審判、オフィシャルたちが、正しい動作をしているか、私はそれを見ているのです」
という答えが返ってきました。

「柔道は、短期間で根付くものではありません。3年、5年、10年と、それぞれの成長過程を見ながら、わが子を育てるような気持ちで育てることが大切だと思います」
・・・などなど、粟津氏からは、55年の重みが伝わってくる言葉がたくさん聞かれましたが、中でも、

「私は、時代に恵まれていました。なぜなら、私がフランスに渡って55年間、日本は戦争がなかったからです。戦争があれば、私はこうしてフランスの柔道に関わっていることなどできず、日本に戻って戦わなければならなかったでしょうから」
という言葉が、今もはっきり私の耳に残っています。戦争を知らず、平和が当たり前の時代に育った私には、はっとさせられる、重い言葉でした。

しかし、ひとたびアフリカ諸国を振り返れば、貧困、内戦、暴動、病気・・・問題のない国を見つけるのが難しいような状況です。アフリカの参加選手は、国際大会に出てくる顔ぶれがほぼ限られているので、顔なじみが多いのですが、今大会は、カメルーン、マリ、モロッコ、ニジェール、ザンビア、などのなじみの選手の姿がなく、様々な理由で、柔道から離れてしまったという話も聞き、少々複雑な気持ちでした。
私達ザンジバル(タンザニア)チームも、大統領選挙を控えた政情不安で、柔道の練習が満足にできない状況で、選手の参加を断念したのですから、他人事ではありません。

そういったことを考えながら、試合場で繰り広がれれる熱戦に視線を戻すと、各大陸、各国、いろいろな条件を乗り越えて、こうして柔道というキーワードで結びついた人々が、一堂に会し、誰もが柔道着を着て、1つのルールの下で技を競い合えることは、すばらしいことだとあらためて感じました。

ということで、今日は、カイロで開かれた世界柔道選手権大会の話題でした。
それでは、今日はこのへんで。次回の便りまで、GOOD LUCK!! 

                    2005年9月25日
                                    ムナワルこと 島岡 由美子拝

P.S 
私にとって、2度目のカイロは、あいかわらず騒々しく、信号があっても誰も守らず、身を楯にして車を止めないと渡れないという状況で、広い道路を横断するときなど、車線お構いなしに飛ばしてくる車に、何度も「跳ねられる!」と足がすくみ、冷や汗をかきました。でもカイロの人々は、平気で大混雑の道路を横断するんですよね。毎回びっくりです。

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No87.タンザニア一決定戦、ドクター柔道杯2005

左から、子供の部優勝者アブドゥルサマッド君、島岡代表、大人の部優勝者ハマディ・シャーメ選手

1.ドクターカップの始まり
2.ザンジバル大統領選挙
3.試合結果
4.閉会式
5.大会を振り返って


ジャンボ!アフリカフェフレンドの皆さん、お元気ですか?
今年の日本はとっても寒そうですね。ザンジバルは日本と反対で、真夏!年末に向けて急激に暑くなっています。
 
今日は、12月21日にザンジバル武道館で開かれた、恒例のJAPANES EMBASSY DOCTOR JUDO CUP2005(日本大使館医務官柔道杯2005)の様子をお伝えしましょう。
<ドクターカップの始まり

この柔道大会は、在タンザニア日本大使館の医務官だった川原尚行氏が、ザンジバル柔道の発展のためということで、自ら勝者や参加選手に賞品を出して、2001年にザンジバル柔道大会を発起したことから始まったものです。
後任の宮武一志ドクターの時から、大会主旨をザンジバル内だけではなく、タンザニア柔道発展というところまで広げ、タンザニア本土のチームも招き、無差別でタンザニア一を決定する全タンザニア柔道大会としてザンジバル柔道連盟主催、後援日本大使館医務官という形で続いており、ザンジバルの中では「ドクターカップ」の愛称で親しまれています。今回は第4回目で、医務官は、井上英史氏でした。

<ザンジバル大統領選挙

ところで、こちらは、11月300日にザンジバル大統領選挙、12月14日にタンザニア大統領選挙があり、それぞれ大統領が選ばれました。(タンザニアは、ザンジバルとタンザニア本土タンガニーカとの連合共和国なので、ザンジバル大統領とタンザニア大統領がいるのです)
タンザニア本土は与党が圧倒的に強いので滞りなく選挙が行われたのですが、ザンジバルは与党と野党の一騎打ちとなり、政治集会のたびに催涙弾を構えた警備隊が集会を包囲するといったものものしさ、選挙結果発表前日には、催涙弾が何百発も飛び交うかなり荒れた選挙となりました。

ザンジバルは、この選挙の影響で、ここ数ヶ月、政情が不安定で、9月ごろからとてもスポーツどころではない状態となり、柔道場も閉めていました。選挙後も落ち着かない状態でしたが、11月中旬より道場を開き、とりあえず練習を再開。

警察チームは、勤務体制が厳しく、夕方の練習は来られないとのことで、早朝に自主トレをやり、一般チームは通常通り夕方練習をしていましたが、武道館の近くで政治集会があると、時折催涙弾が発砲され、その催涙ガスが道場の中にまで流れてきて、全員目の痛みと咳で練習どころではなくなるといったこともしばしば。しかしながら、ドクターカップ出場へのモチベーションは高く、皆それぞれのやりかたで調整して試合に臨みました。
 
<子供の部>
また、今回のドクターカップでは、初めて子供の試合も行うことにしたので、練習の段階から子供達が大いに張り切っており、試合当日も、はじめに子供パワーが炸裂しました。
子供の試合は、20人で体重順に並んでの勝ち抜き戦でおこなわれ、アブドゥルサマッドが6人抜きで優勝。アブバカルが5人抜きで2位。2人抜きをした3人が、同点3位となりました。

子供の試合ですっかり会場が盛り上がったところで、いよいよドクターカップ大人の部が始まり、今回はベスト8まで大きな賞品が用意されていたので、全員何とかベスト8に入ろうと、白熱した試合が繰り広げられました。

今回残念だったのは、ザンジバルチームのキャプテン、ハジ・ハッサンが試合直前にマラリアに罹り、試合に参加できなかったことですが、参加した選手達は、持てる力を十分に発揮し、よい試合となりました。その中でも、今回は本土チームから100kg超級が2人参加していたため、ザンジバルの100kg級との力のこもったつぶしあいもあり、見ごたえは十分でした。

<大人の部 試合結果


注目のベスト8は、ザンジバル勢6名、本土チーム2名で、毎年ドクターカップで賞品獲得のため特に力を発揮し、過去3回のドクターカップで、優勝、優勝、準優勝という成績を残しているアブダラは、2回戦で本土チームのメシャックに優勢負け。今年は上位入賞を逃し、参加賞のみに終わってしまいました。

ベスト4に勝ち残ったのは、全員ザンジバル勢で、アリ・ジュマ(60kg級)、ヘメディ・ ムタンガ(73kg級)、ハマディ・シャーメ(73kg級)、マスーディ・アムル(100kg級)。準決勝は、アリ・ジュマが実力を発揮し、ヘメディ・ムタンガ に一本勝ち。ハマディ・シャーメとマスーディは、ハマディがスピードで撹乱し、マスーディに攻撃する隙を与えず優勢勝ち。
準決勝で負けたヘメディ・ムタンガとマスーディで、3位決定戦を戦い、体重と怪力を 武器にマスーディがヘメディを圧倒。有効と技ありを取り、マスーディの優勢勝ちで初出場のマスーディが3位に輝きました。
 
決勝戦は、アリ・ジュマとハマディ・シャーメ。お互いスピードと力、経験をフルに使って戦い、他の試合とはまったく違う、さすがに国際大会に参加している選手同士での試合だと思わせるものがありました。アリ・ジュマが先に効果を取り、次にハマディが有効を取り返しそのまま押さえ込みに入りました。アリも最後まで何とか逃げようとしたものの、ハマディの怪力でがっちりと押さえられ、そのままハマディの一本勝ち。
ハマディがドクターカップ初優勝を飾りました
 
今大会の隠れた話題は、南アフリカでのサーキットトレーニング中、首を骨折して以来、柔道から遠ざかっていたイディが、2年半ぶりに復帰したことでした。

イディは島岡代表が12年前に始めた青空道場時代からの弟子で、入門時はまだ一〇代、ひょろひょろであどけない少年でした。各大会では優勝こそありませんが、サバサバ大会その他で準優勝などの経験があり、怪我をするまでは中堅どころとしてがんばっていた選手です。

イディは、順調に1回戦を突破。2回戦では、今回Best8に勝ち上がった本土チームのザイディとあたり、優勢負けで敗退。
イディ本人は、上位入賞を狙っていたので、2回戦で負けてとても悔しそうでしたが、彼が首の骨折した現場はもちろん、病院に担ぎ込んだときから復帰までのことを知っている私の方は、イディが倒れるたびにヒヤッとしたり、寝技で押さえ込まれたのを返している姿を見て胸が熱くなったりと、個人的に大変心の中が忙しい試合でした。

<閉会式>

試合終了後、井上ドクターから技能賞、精勤賞、努力賞などを含めて、それぞれの賞品(大型テレビ、ビデオデッキ、小型テレビ、自転車、足踏みミシン、携帯電話など)が手渡され、最後は島岡代表から特別賞として、本土チームのキャプテン、フセイン・ムペンダと、今回ザンジバルの白帯で1回戦で、本土チームの黒帯に勝ったキンガジ選手に携帯電話を手渡したところ、二人とも予想外のことだったので、大変喜んでいました。
今年の参加賞は、Yシャツでした。(120kgもある重量級選手用のサイズを探すのが大変でしたが・・・)

(←右の写真は、試合結果から各賞の人選をする島岡代表、井上ドクター、ムシンド氏)

子供達は、井上ドクターから、上位5人に腕時計、子供全員に参加賞(カラーペン6色セットなど文房具)が手渡され、みんなぴょんぴょん飛び上がって大喜び。中には喜びすぎて(?)早速消しゴムを落とし、泣きべそ顔で道場を探し回るおっちょこちょいもいましたが・・・。

子供の部で優勝したアブドゥルサマッド君は、
「僕の前も後ろも僕より背の高い子達がずらりと並んでいて、勝ち抜けるとは思っていなかったので、すごくうれしいです!5試合終わったところで、息が苦しくなって泣きそうになったけど、やるしかない!と思って、思いっきり大声を出して向かっていったら勝てました
とややてれながら。


ドクターカップ大人の部で初優勝を飾ったハマディは、
「ここのところ、体の調子が悪く、このまま柔道ができなくなるのじゃないかと思った時期もあったほどなので、今日のドクターカップ優勝は本当に嬉しいです。

これで国内大会はすべて優勝を果たしたので、自分が現役の間に、ぜひ1つでも、何色のメダルでもいいから、国際大会でメダルを取って、ザンジバルに持ち帰りたいです
と落ち着いた表情で語っていました。

今回は、新しく赴任された井上ドクターになってから初めてのドクターカップでしたが、その盛りあがりぶりに井上氏も大変感動して、閉会式で
「私の井上という苗字は、ここでいえば、モハメッドさんとかジュマさんといった感じの、日本ではとてもありふれた名前ですが、この「井上」の中に、日本が世界に誇る井上康生というすばらしい柔道選手がいます。彼はオリンピックでも世界柔道選手権でもチャンピオンに輝きました。しかし、この井上選手ですら、常勝はできません。柔道の試合で心と技と体のバランスを保ち、勝ち続けるのは本当に大変なことなのだと思います。
そのバランスを保つための薬は、練習のみでしょう。皆さんも、島岡監督の下で、さらに練習に励み、井上康生選手のように強くなってください」
というスピーチと共に、来年のドクターカップの開催を約束して締めくくり、会場は拍手喝采となりました。
 
来賓は、ザンジバルのスポーツコミッショナー、ムシンド氏で、
「ザンジバルのスポーツ界で唯一タンザニア本土に勝てる柔道を高く評価する。ザンジバル政府としてもバックアップを惜しまない」
という力強いスピーチでしたが、実現のほどは定かではありません。

<大会を振り返って>

ザンジバル柔道連盟会長とタンザニアのナショナル柔道コーチを兼ねる島岡代表によると、
「タンザニア柔道界にも少しずつ世代交代の兆しが見え始めてきた。
また、ザンジバル勢も本土勢も、しっかりと練習を続けた選手や、合同キャンプに何度も参加している選手は確実に強くなっており、いくら過去に強くても、ろくに練習をしていない選手は、上位に入ることはできないということが、結果となって顕著に表れたので、選手達もそれを実感した教訓的な大会になった」
とのことでした。

選挙による政情不安で、今年のザンジバル後半は何かと暗い話題が多かったのですが、ドクターカップは、子供、大人、観客、来賓全員で、今までのもやもやした気分を吹っ飛ばすように大いに盛り上がった大会となりました。

今年のタンザニア柔道は、アリ・ジュマ、ハマディ・シャーメ、ハジ・ハッサンの日本柔道留学から始まり、南アフリカ国際柔道大会参加などの国際試合、そして国内での日々の練習と、試合を経て、今回のドクターカップで締めくくる形となりましたが、後半は、選挙による政情不安で、柔道熱が下がっていたので、この大会を契機に練習が再開され、再び選手達に活気が戻ってきたのは、大きな成果だったと思います。やはり、試合は、選手たちにとって大きなモチベーションとなりますものね。

ということで、2005年最後のタンザニア便りは、真夏のザンジバルで、タンザニア柔道NO.1の座を競って、熱く熱くヒートアップしたドクターカップの様子を綴ってみました。

今年もタンザニア便りをご愛読くださり、ありがとうございました。
日本は大変な寒波のようですが、くれぐれもお体に気をつけてよい年末年始をお迎えください。
2006年もよろしくお願いします。
皆様のご健康とご多幸を祈りつつ、GOOD LUCK!! 
                    2005年12月28日
                                    真夏のザンジバルより
                                          島岡 由美子拝


ドクターカップ2004の様子は、→こちらです。

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