タンザニア便り '01年2月

便り22「バブが語る昔のコーヒー事情」(2001.2.4)
便り23「コーヒー愛飲歴70年、ビビが語る」(2001.2.4)
便り24「セネネ(バッタ)は愛の証」(2001.2.17)




便り22「バブが語る昔のコーヒー事情」
(2001.2.4)


ジャンボ!お元気ですか?
今年の成人式は、1月8日だったそうですね。子供の頃から成人式は1月15日、体育の日は10月10日といった具合に、祭日を日付で覚えているまま日本を離れて久しい私にとっては、祭日を含めて連休になるようにと粋なはからいになっている日本のカレンダーを見ると戸惑ってしまいます。

さてきょうは、もし日本で生まれていたなら、59年前に成人式を迎えたであろうムゼー(お年寄り)の登場です。
このおじいちゃんの名前は、アハメッド モハメッド、ザンジバルのミチェンザニ地区で「物知りじいさん」として知られているムゼーです。
スワヒリ語では、おじいさんのことを、バブと呼びます。このアハメッドおじいさんこと、バブ アハメッドが生まれたときには、まだタンザニアという国はなく、本土タンガニーカはドイツやイギリスが、ザンジバルはオマーンのスルタン(王様)が統治していました。だから、バブが生まれたときはもちろん、大人になって結婚しても、まだザンジバルはオマーン帝国の一部だったのです。

私たち日本人の感覚では、生まれたときから日本は日本、おじいさんのそのまたおじいさんのもっともっと昔から、日本は日本であることがごく当たり前ですが、部族から、国という意識を持つ前に、勝手に地図上に線を引かれ、外国人どうしの協定や争いの中で知らないうちに分割され、勝手にどやどやと入植してきた外国人に支配され続け、1961年にやっとタンガニーカ国として独立したタンザニア本土と、1963年にタンガニーカ本土とともにタンザニア共和国としてスタートしたザンジバルの人々にとっては、まだまだ生まれた当時から、タンザニアはタンザニアと言える人のほうが少ないのです。
ということで、きょうは、バブ アハメッドから聞いた、ザンジバルの昔のコーヒー事情をお伝えしましょう。

「昔は、今よりずっと多くのコーヒー売りがいて、朝夕、熱いコーヒーの入った真鍮のコーヒーポット(アラブ式コーヒーポット、コーヒーが冷めないように、下に炭を置き、持ち運びができるようになっている)を左手で下げ、右手でコーヒー用の小さな椀を重ね持ち(イスラム教徒は不浄の手である左手では、口につけるコーヒーの椀を持たない)、縦に振ってティティティチン、ティティティチンと打ち鳴らしながら売り歩いていたものさ。
誰も『コーヒー屋だよー』なんて、やぼな声は出さない。ティティティチン、という椀の音が、コーヒー屋のトレードマークだったんだ」

当時のコーヒー売りのほとんどは、スワヒリ語でワシヒリと呼ばれるイエメン出身のアラブ人だったそうです。
なぜイエメン出身のアラブ人に限られたかというと、アラブはアラブでも、オマーンに比べて国力の弱いイエメンには、貧しいアラブ人がいっぱいいて、ザンジバルに流れてきても、財力のないイエメン人には、大きな仕事ができないので、元手のかからないコーヒー売りを始めた、という事情があったようです。

「元来、コーヒーは、アラブの文化。本場のアラブ人が入れるコーヒーは、そりゃあうまかったよ」

当時のコーヒー屋は、皆一様に、セルニという腰巻を巻き、上はポケットのついた上着を着ていました。
女たちは、コーヒー屋を家の中に呼んだり、子供に鍋や器持参で、使いにやらせますが、男たちは、コーヒー屋を呼び止めて、その場で立ち飲みしながら談笑するので、呼び止めた客が、どこででも、また客が複数でもコーヒーが飲めるように、右手に重ねている椀とは別に、上着のポケットにいつも7、8個の椀を入れて歩いていたそうです。 

「昔のコーヒーは、そりゃあうまかったよ。今の若い人たちに、本当のコーヒーの味を教えてやりたいね」

バブ アハメッドの分析によれば、「1964年のザンジバル革命後、アラブ人のコーヒー屋たちがどんどん少なくなって、代わりに見よう見真似で、地元のザンジバル人がコーヒー屋を始めた頃から、コーヒーの味が落ちてきて、素人の入れるコーヒーと、玄人の入れるコーヒーの差がなくなってきてしまった」とのことでした。

「昔の・・はうまかった」「昔の・・はよかった」って、日本でもよく聞くフレーズですね。
お年寄りが往年を懐かしむ時、ただの感傷だけではなく、歴史の生き証人であり、人生の先輩として、自分が見た真実を、若い人に伝えておいてやりたいという強い気持ちを感じます。
日本に「亀の甲より年の功」「年を問うな世を問え」ということわざがあるように、タンザニアにも、「お年寄りは知恵袋」、「年寄り1人は、若者7人よりも優る」ということわざがあり、お年寄りは、尊敬すべき人生の先輩として敬われ、大人も子供も何かあるとまず、お年寄りに意見を求めています。
テレビ、雑誌、インターネット・・・現在、私達の周りには様々な情報が溢れ、まったく人を介さなくてもたくさんの知識が得られます。でもそんな世の中だからこそ、人生の先輩たちに直接会って生の声を聞き、自分達の人生に生かしていくことが大切ではないかと、タンザニアの人々のありかたを見ていて思うのです。
バブ アハメッドから受け取った真実を、あなたにもお伝えします。どうぞ受けとってください。

GOOD LUCK!!
ザンジバルのMUNAWARより




便り23「コーヒー愛飲歴70年、ビビが語る」(2001.2.4)


ジャンボ!お元気ですか?
日本は節分、豆まきの季節ですが、ちゃんと熱い豆をまいて、家の中の鬼や疫病神を退治しましたか?
この節分の豆は、疫病神などを追い払う追儺(ついな)という中国の行事から始まり、大豆の持つ生命力への信仰から、鬼やらいには欠かせないものになったそうです。
二度と芽が出てこないように、よく炒ることが豆まき用の豆の秘訣だとか。

アフリカフェの故郷ブコバから見ると反対岸、ビクトリア湖の東対岸、ウガンダとケニア国境に住むルイア族は、葬式の中で、太鼓係りが踊りの輪に向かってうずら豆を放る慣習があり、ここでもやはり、豆には豊作と病気や邪術者を退ける力があると信じられているようです。
ところで、熱く炒ったコーヒー豆も、なかなか力がありそうに思うのですが、いかがでしょうか?

さて、きょうは、コーヒー愛飲歴70年を誇り、75歳になった今でも毎日朝夕のコーヒーは欠かさないというザンジバルのビビ ズベダに、昔のコーヒー事情を聞いてきました(スワヒリ語では、おばあさんのことを、ビビと呼び、その後に名前を続けます。ビビ ズベダとは、ズベダおばあちゃんということです)。
ビビ ズベダは、まだ4、5歳だった頃から、毎日朝夕かかさずコーヒーを飲んでいたビビのビビ(おばあちゃんのおばあちゃん)の影響で、大のコーヒー党になったそうです。

「当時のコーヒー屋は、朝夕きまった時間になると、左手に熱いコーヒーの入ったアラブ式のコーヒーポット(真鍮製、注ぎ口が細く長い)を下げ、右手で、小さなコーヒー用の椀を数個重ねて、器用にチンチンチンチンと打ち鳴らしながら家の前を通ったものさ。コーヒー屋はそれぞれ自分の音とリズムを持っていて、家の中からでも、その音でどのコーヒー屋が来たのかわかるのさ。私のビビがひいきにしていたコーヒー屋は、チンチン チチチン、チンチン チチチンっていう弾むようなリズムだったから、私も子供心にその音を聞くとうれしくてね。ビビに、『ズベダ、コーヒー屋を呼んでおいで』って言われるのを、今か今かと待っていたものだよ」

また、当時のコーヒー屋は、コーヒーを注ぐ時にも、必ずパフォーマンス付きでした。

「ただ普通に注ぐのではなく、左手に持ったコーヒーポットを思い切り高く上に上げ、右手の椀は思い切り下に下げ、その状態から一気にコーヒーを注ぎ込み、それと同時に両手を近づけていって、最後は、コーヒーポットの注ぎ口を、椀のふちにチンとあてて、一丁上がり。子供心に、あれは熟練した者にしかできない技だと思って、飽きずにコーヒー屋の手元を見つめていたものさ」

当時のコーヒー屋は、コーヒーの味と香りにこだわるだけではなく、椀を打ち鳴らす音や、注ぎ方パフォーマンスを含めた演出にも凝っており、これからコーヒーを味わおうとしている客の気持ちを盛り上げ、いかにいい気分で自分の入れたコーヒーを味わってもらえるかということに全力を尽くしていたとのことでした。
古き良き時代を懐かしそうに回想するビビ ズベダですが、現代のコーヒーにはやや不満げです。

「当時はコーヒー屋が今よりずっとたくさんいて、しかも今よりもずっと濃くてうまいコーヒーを飲ませたものだよ。値段はあってないようなものだったね。当時は通貨も今のようにシリングじゃなくて、オマーン王国の通貨、ルピーを使っていたけれど、1杯いくらとかじゃなくて、その日のコーヒーがうまければ、気前よく何ルピーも払っていたし、ひどくまずい時には、怒って金を全く払わないときだってあったよ。でも、コーヒー屋自身、それに対して何も言わなかった。今じゃあ、1杯いくらで、うまかろうがまずかろうが、一律になってしまっているようだけれど、それは、本当のコーヒー通のすることじゃないよ。
スワヒリ語には、『どんな仕事も、その仕事に適任の人がやるものだ』っていうことわざがあるけれど、今のコーヒー屋たちに、その言葉を教えてやりたいね。当時の人たちは、コーヒー屋がうまいコーヒーを入れれば、その仕事に対して、喜んで高いお金を払ったものだよ。報酬というのは、本物の仕事をした者だけに与えられるものだってことが、今の若い人にはわかっていないよ」

ビビのビビは、ある日、初めて家の前を通ったコーヒー売りのコーヒーがあまりにうまかったので、当時イギリスにいた親戚が、焼き菓子の中に隠して送ってくれた、とっておきの金貨1枚(それ一枚で何カ月も生活できるほどのお金)を、そのコーヒー屋に渡したこともあったそうです(家族はもったいないと、止めたそうですが)。
タンザニア便り22でご紹介したアハメッドおじいさんの話でもそうでしたが、コーヒー屋というのは、神から選ばれた才能のある人だけができる職業で、コーヒー屋は職人。客は、職人のコーヒーを入れる技と味、そして、音や注ぎ方といった演出に至るまでを含めた仕事ぶりに対して、自分で判断して、その時そのときの報酬を払うというのが、昔の人のやり方だったようです。
なんだか、すごく厳しいけど、とても粋な感じがしませんか。
朝、うまいコーヒーが飲めたら、その日は1日HAPPYと言うビビ ズベダ。コーヒー愛飲歴70年は、だてではなくコーヒーを入れるのは、神からその才能を与えられた職人のする仕事だから、自分では一切コーヒーは入れないと言い切る、75歳のビビ ズベダ。
でも、最後に、こう言って笑っていました。

「最近のまずいコーヒーを飲むなら、孫のハバラが入れるアフリカフェの方がましだね」 

ビビからもお墨付きをもらったアフリカフェ、懐かしいおばあちゃんの声を聞いて、日本でもますます張り切っていることでしょう。

ザンジバルのMUNAWARより




便り24「セネネ(バッタ)は愛の証」(2001.2.17)


ジャンボ!お元気ですか?

日本はバレンタインデーで、今年もチョコレートが飛び交っていたことでしょうが、タンザニアではバレンタインデーなんて気にしている人は誰もいません。
それでは、タンザニアには愛の証としてプレゼントを贈る習慣がないのかというと、そういうわけでもありません。
きょうは、アフリカフェの故郷、ブコバでの最高の贈り物、セネネの話をしましょう。

セネネとは、英語で言えば、グラスホッパー、つまり、バッタ。
ブコバでは、このセネネというバッタが、何よりの贈り物であり、愛の証でもあるのです。

セネネが発生するのは年に2回。
電球など光に寄って来る習性を利用して、網を使ってまとめて獲り、羽をむしって調理します。
調理法は、一度塩ゆでして油で揚げる方法と、スモークする方法がありますが、どちらも塩をきかせており、長期の保存が可能で、保存食の1つです。
セネネについては、ブコバに行く前から、話には聞いてはいましたが、まわりに、実際に食べた人はなく、味についての情報がなかったので、バッタを食べるなんてと、ちょっとためらっていたのですが、ブコバでは、誰もが皆、胸を張って「セネネの味は最高だよ」と声を揃えるので、思い切って、バスステーションの屋台で売られていた揚げセネネを食べてみました。
見た目は、確かに羽をむしられたバッタそのものでしたが、苦味もなく、塩味のきいた小エビのから揚げのようで、香ばしくてとってもおいしく、コーヒーや、酒のつまみにぴったりという感じでした。
日本でもイナゴの佃煮を食べたことがありますが、イナゴも佃煮にするよりタンザニア式に、から揚げにした方がおいしいのじゃないかな?とセネネを食べて思いました。

ところで、このセネネ、ただおいしいバッタというだけではありません。
ブコバの人は、このセネネを、愛の証としてとらえているのです。
ブコバでは昔から、セネネ捕りは、女性だけの仕事でした。
女性達は、セネネが発生する季節になると、毎日毎日たくさんセネネを捕って、せっせと羽をむしり、油で揚げたり、スモークしたりして調理すると、そのセネネをバナナの葉できれいに包み、愛する男性に愛の証として差し出すのが、ブコバでの風習です。

そのときだけは、女性から男性に愛の告白ができるので、女性は、この人と結婚できますようにと願いをこめて、セネネを渡します。
また、付き合っている女性から、この愛のプレゼントが届かなくなったら、2人の愛は終りという証明でもあり、このセネネのプレゼントは、日本の男性が、バレンタインのチョコレートがもらえるかもらえないかでやきもきする以上に、大きな問題のようです。
ブコバの男性に、「結婚前にセネネをもらいましたか?」と聞いてみると、一様に「セネネももらわんで、どうやって結婚するんだね?」という答えが返ってきました。
また、セネネの量、調理法、味付けだけでなく、バナナの葉でいかに美しく包むか、といったことにも愛情が表れるとかで、セネネは、その女性が、相手の男性をいかに愛しているかを測るバロメーターなのだそうです。

また、ブコバの女性は、結婚してからも、もちろん毎年、せっせとセネネを捕って、愛する夫や家族達に食べさせ、セネネで客をもてなし、遠くに住む家族や友人に贈ります。
飛行機で隣に座ったブコバ出身者、ダル・エス・サラームで働くルタショビア氏も、1年ぶりの故郷訪問で、お母さんから大きな袋いっぱいのセネネを手渡されて、とても嬉しそうでした。
ちなみに、彼は違う地方の女性と結婚したので、妻からはセネネがもらえず、彼にとってセネネは、なんとも懐かしい「おふくろの味」なのだそうです。

今でこそ、女性たちもセネネを食べることができますが、少し前までは、ブコバの女性は、セネネを食べることを禁じられていました。
とにかくセネネを捕り、うまく調理して愛する男性に贈ることが、ブコバの女性の定めだったそうです。
でも、その理由が、「女性にセネネのうまさを知られると、調理したそばから全部食べてしまい、男性陣の口に回ってこなくなってしまうから」とは、なんとも勝手な理由だと思いませんか?
それに、今は、昔のように禁じられてこそいませんが、それでもやっぱり、セネネを人前でバクバク食べるのは、ブコバ女性としては失格なんですって。

日本でも、その昔、イナゴの佃煮が愛の証だった時代もあったか否かは、定かではありませんが、ブコバでは、今も昔も、このセネネというバッタが愛の証です。
ブコバの女性達が、捕獲から料理まで、手をかけ閑をかけて作った、愛情たっぷりのセネネが、今年も、バナナの葉で美しく包まれて、ブコバの男性の手に渡り、そして、男性は女性の変らぬ愛情に満足しながら、セネネをつまみにコーヒーや酒を楽しんでいることでしょう。
ところで、あなたなら、愛の証として、彼(彼女)に、どんな贈り物をしますか?
あなたの愛が、彼(彼女)にしっかり伝わることを、タンザニアの真っ青な空の下より祈っています。

GOOD LUCK!! 








NO.1「ジャンボ!」(2000.4.15)
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NO.3「ジャンボ、ベイビー! (こんにちは、赤ちゃん)」(2000.5.18)
NO.4「カンガ(布)は語る」(2000.5.25)
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NO.6「リズム感のルーツは子守唄にあり」(2000.6.28)
NO.7「日本は七夕、タンザニアはサバサバ!」(2000.7.11)
NO.8「アフリカフェの故郷ブコバ」(2000.7.16)
NO.9「アフリカフェの生みの親、TANICA社」(2000.7.16)
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