トロワ・タンザニアからのTANZANIA便り

*この便りはトロワ・タンザニアのMUNAWAR(島岡由美子)さんからのものです。
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便り61 「ザンビア&南アフリカ、柔道遠征5週間」
便り62 「2003大阪世界柔道選手権大会―2003 WORLD JUDO CHAMPIONSHIPS」



便り61 「ザンビア&南アフリカ、柔道遠征5週間」

ジャンボ!アフリカフェフレンドの皆さん、お元気ですか?
日本は、夏らしからぬ夏のまま8月が終わってしまったようですが、皆さんは、どんな夏をお過ごしでしたか?

私の方は、ザンジバルからダル・エス・サラーム、そこから、ザンビア、ジンバブエ、南アフリカと船、電車、バスを乗り継いで、7月中旬から5週間のタンザニア柔道チームの遠征に出ていました。

南半球は日本と反対で、今が冬。ザンビアも寒かったですが、南アフリカはもっと寒く、Tシャツ、トレーナーの上にセーター、その上ジャケットを着ても寒いほどだったので、常夏のザンジバルしか知らない選手たちは、「寒い!寒い!」の連発でした。

今回の遠征の目的は、タンザニア国内だけで、いつも同じ相手とやりあっていてもなかなかレベルアップしないので、外国の道場に出向き、なるべく多くの選手と交わって場数を踏み、いろいろな柔道スタイルを学ぶという、いわば武者修行のような意味合いを持った遠征でした。

----まずは、タンザニアの隣の国、ザンビアへ----

ザンビアへは、ダル・エス・サラームからタンザン鉄道(通称タザラ鉄道)で、楽しい2泊3日の電車の旅・・・のはずが、途中で電車のエンジンが壊れて、何度も急ブレーキで止まったり、坂道が登れなくて、坂の途中で止まって、バックしてしまったり・・・といったことを繰り返しつつも何とか前進していたのですが、翌日の早朝、周りに家もないような場所で、完全に止まってしまいました。

こちらの電車には、日本のように、車内アナウンスなんてないので、どうして止まっているのか説明もないままでしたが、乗務員に聞いてみると、なんと、エンジンが壊れてどうしても坂道が上れないので、ムベアから取替え用の部品が来るまで待つから、いつ出発できるかわからないとの返事。

ひたすら待つこと、なんと、10時間! やっとのことで、エンジンの修理を終えて、動き出したものの、夜になっても電車は停電のまま、最後には、食堂車の食べ物も事欠く有様で、終点のカピリポシ駅に着いたのは、出発から数えて4日目。

つまり、予定より丸々1日遅れて、電車で3泊4日してしまったものの、無事ザンビア入りを果たしましたが、このカピリポシから、ザンビアの首都ルサカまで、バスで2時間の道のりのはずが、ここもまた5時間半もかかり、ルサカにある柔道場にたどり着いたときは、本当にほっとしました。

ザンビアでの2週間の滞在期間中は、当たり前のことなんですが、朝夕2回、練習、練習、また練習でした。ザンビア柔道連盟の計らいで、午前中はザンビアナショナルチームと、午後は、エアフォースチーム(航空部隊)との合同練習で、みっちり鍛えてもらいました。

ザンビアは、30年以上前から、ジューデというアイルランド人の神父さんがザンビア柔道界を引っ張ってきており、一時期は、ザンビアに数カ国の柔道チームを招いて、国際柔道大会を開いたり、チームを率いて各国に試合に参加したり、合同練習に行ったりと活発な活動をしていたそうですが、ジューデ神父が柔道連盟の一線から退いた数年前から、外国との交流がいっさい途絶えていたそうで、今回、タンザニアチームが遠征に行ったことで、久々に外国との交流がもてたと、大いに喜ばれました。

このジューデ神父は、ザンビアの貧しい子供や親のいない子供にも、将来柔道という特技を生かして仕事につけるようにと無償で柔道を教えてきたそうです。ザンビア柔道界では、子供の頃からジューデ神父に育てられたという若者たちが今は、ナショナルチームの若手コーチに育っていたり、警察、軍隊のあちこちに散らばっていました。

ジューデ神父に育てられたフランシスコーチが、まだまだ新しい相手と組み合うことに不慣れで、気後れしているタンザニアの面々に、
「どんな相手でも、同じ人間だ。相手にも腕が2本、足が2本。目は2つ。何を恐れることがあるんだ。畳に上がったら、相手をしっかり見据えて恐れないで向かっていけ」
と大切なアドバイスしてくれました。

---南アフリカにて---



さて、2週間の練習を終え、ザンビアのルサカから1泊2日のバスの旅で、南アフリカのジョハネスバーグへ向かいました。これもまた6時間遅れて、到着予定正午のはずが、ジョハネスに着いたのは、もう夕方で、暗くなりかけていました。

ここジョハネスバーグは、南アフリカで一番治安が悪と言われており、南アフリカ柔道連盟から、昼間に私たちタンザニアチームを迎えに来てくれていた人たちも、ジョハネスに長居はできないと、帰ってしまっていたので、バスから降りたものの、誰もいないので、自分たちでホテルを探して歩いたのですが、なんというか、ここ、ジョハネスのバス停近辺には、いつ誰が襲われてもおかしくないという雰囲気が漂っていて、いつも明るすぎるぐらい明るいタンザニアの柔道の面々も、無言で、全員固まって歩きました。

ルサカのバス停まで見送りに着てくれたザンビア柔道の人に、
「ジョハネスに着いたら、とにかく気をつけること。私の友人は、ジョハネスのレストランで食事中に、拳銃を持った強盗団が入ってきて、所持金全部盗られたんですよ。黒人同士でもそうなんだから、とにかく気をつけて行ってきてください」
と言われた言葉がよみがえってきました。 

その日の夜中には、本当に銃声が聞こえていたし・・・うーん、とにかくジョハネスの日暮れから暗くなるときの殺気だったあの雰囲気は、今でも忘れられないですね。

ジョハネスは、ここ数年治安が悪くなる一方なので、いきおい観光客やビジネスマンも敬遠するようになり、ジョハネスの街に林立するビルのあちこちが、無人の廃墟と化しているそうです。

ジョハネスのビル街は、治安のため、夜中でも煌煌と明かりがついて、不夜城のさまを呈していましたが、中で働く人あってのビジネスビルや、ゆっくり安らぐ空間であるはずのホテルが、人間なしでそびえ立っている姿は、何ともむなしげに見えました。

しかし、一歩、ジョハネスの郊外になると、話はがらりと変わって、のどかで平和な住宅街やショッピングセンターがあちこちにあり、黒人も白人も穏やかに混じっていて、同じ国とは思えないぐらい平和そうな様子を呈していました。

約20日間の南アフリカ滞在中には、南アフリカ柔道連盟の計らいで、ジョハネス近郊、南アの首都プレトリア、ジョハネスから約200kmはなれたGAUTENG VAAL(ちょっと日本語読みがわかりません)プラチナの産地ルスタンバーグ・・・等々、各地の5つの柔道場と2つの大学を回り、第一目的だった多くの選手たちと交わりながら、いろいろな柔道スタイルを学ぶことのできる、文字どおりのサーキットトレーニングとなりました。

南アフリカでの柔道は、まだまだ白人中心で、道場に黒人はちらほらしか見られず、タンザニアの面々は、初めは臆していましたが、滞在期間を通じて、柔道に肌の色や国籍は関係ない。誰でも柔道着を着て、道場に入れば、平等であるという柔道の基本精神を、人種差別で名高い南アフリカで逆に学ぶことになりました。

南アフリカの現役柔道家たちも、ザンビアと同じように、親子2代目世代が多くなっており、また、南アフリカでは、どの道場でも、特にジュニアの、チビッコたちが多く、柔道が南アフリカでも広く根付きつつあることを感じました。

それから、南アフリカの各道場を回って感じたのは、日本柔道への憧れの強さです。

英語版でたくさん柔道や武道、その技術だけではなく、精神性に触れる本がたくさんあり、各道場の代表達は皆こういった本を読んでいて、日本人である島岡コーチは、あちこちで日本柔道、武道に関する熱心な質問を受けました。

中でも印象に残っているのが、アトラス柔道館代表のマイク氏のこと。

彼が一番自分の弟子たちに伝えたいことは、「猿も木から落ちる」という精神なんだといって、それを道場の正面に掲げたいから、日本語で書いてほしいと頼まれました。

確かに、このことわざ、内容的には、「油断は禁物、調子に乗るな」と弟子たちを戒めるにはぴったりですが、道場の正面に掲げるには、ちょっと似合わないんじゃないかと思ったのですが、マイク氏はもう何年も前からこのことわざにいたく感激していたんだそうです。
 
ちなみに、その本には、「猿も木から落ちる」のはずが、「KIKARA SARUMO OCHIRU」と微妙に語順が違って書かれていたので、思わず吹き出してしまいました。



ルスタンバーグの道場では、「ツニヒネ」、「キウトテ」・・・等々、意味不明のカタカナが、壁のあちこちに縦書きで書き込まれていました。

何か意味があるのかな? と道場主に聞いてみると、
「柔道場だから、壁に日本語を入れてほしいとペンキ屋にリクエストしたら、日本語を調べて書いてくれた。意味は知らない。でも、あなたが読めたということは、やっぱり日本語だったんだね」
という答え。

うーん、たしかに日本人には読めますけど、完全に意味不明ですね。これで、上から順に字を小さくしたら、目の検査表と間違えそうな感じでした。

さて、南アフリカでのメインイベントは、8月9日に行われた南アフリカ ランキング大会にタンザニアチームとして5人で飛び入り参加し、何試合か勝つことができ、60kg以下のアリ・ジュマ選手と73kg以下のハマディ・シャーメ選手が、それぞれ、銀と胴のメダルを獲得できたことでした。

島岡コーチが、この5週間の遠征をまとめると、
「去年初めて参加した国際大会、コモンウェルス大会(マンチェスター2002)も、今年5月に参加したモーリシャス国際大会も、タンザニアとして一試合も勝てなかったが、今回の遠征で、初めて国外で何試合か勝つことができ、しかも、2人はメダルも取れたこと、そして、敵地で外国の選手、特に白人、と戦うことに慣れ、彼らに対して劣等感やコンプレックスを感じなくなったのが、この遠征の一番大きな成果だ」
「こういうことを積み重ねていくうちに、それらが自信となり、国際大会で勝てるような選手に育っていくだろう」
とのことです。

この60kg以下のアリ・ジュマと、73kg以下のハマディ・シャーメの2人は、タンザニア代表として、9月11日〜14日、大阪城ホールで開かれる世界柔道選手権大会(2003 OSAKA WORLD CHAMPIONSHIPS)に参加します。

皆さん、大阪でこの2人を見かけたら、「ジャンボ!」と声をかけ、応援してくださいね!

それでは、今日はこのへんで。次回の便りまで、お元気で。
GOOD LUCK!!
ムナワルより



便り62 「2003大阪世界柔道選手権大会―2003 WORLD JUDO CHAMPIONSHIPS」



ジャンボ! アフリカフェフレンドの皆さん、お元気ですか?

私は、先日お伝えしたように、タンザニア柔道チームのマネージャーとして、9月11日〜14日、大阪城ホールで開催された第23回世界柔道選手権大会(2003 WORLD JUDO CHAMPIONSHIPS OSAKA)に参加するため、3週間ほど日本に行っていました。

今年は冷夏と聞いていたので、涼しいかなと思いきや、大阪はまだ暑かったです。

さて、この世界柔道選手権大会は、ご存じのとおり、1956年東京大会から始まって、1965年からは2年ごとに開かれており、今回が23回目という長い歴史を持った柔道大会であり、柔道を志す者にとっては、オリンピックと並ぶ夢の大会です。

今回は、柔道家の憧れの国日本での大会ということで、約100カ国から600人を超える選手が一堂に会し、大阪城ホールで、熱い戦いが繰り広げられただけでなく、観客席でも、日本はもちろん、ドイツ、韓国、フランス、北朝鮮などからの応援団が固まって席を陣取り、応援合戦にも熱がこもっていました。

特に今大会は、柔ちゃんこと田村選手の前人未到の大会6連覇、阿武選手の4連覇といった記録とともに、大人気の井上康生選手をはじめ、野村選手、鈴木選手などなど、金メダルを期待される日本選手団の登場に、会場は、連日沸きに沸いていました。
 
それにしても、実際に試合場で見る井上選手や柔ちゃんは、まさに強くてかっこよかったです! 小さな体で大きな選手に向かっていく阿武選手、無差別級で金メダルを勝ちとった鈴木選手の姿にも感動しました。
  
我らがタンザニアチームは、そんな華やか、かつ国民の期待を一身に背負って戦うといった雰囲気とは無関係のところにいたわけですが、タンザニアの世界選手権大会参加は、もちろんタンザニア柔道界始まって以来のこと。

感涙にむせんでもいいぐらいのところだと思うのですが、当の選手2人(60kg級アリ・ジュマと、73kg級ハマディ・シャーメ)は、世界選手権に参加することの重大さがあまりわかっていないようで、いたってのんきなものでした。その分、気負ったり、臆することがなかったのはよかったですけれど。

  

タンザニアチームが掲げていた目標は、もちろん、一回戦突破。
とはいうものの、島岡コーチには、世界選手権大会で一勝をあげるのは至難の業ということはわかっていたので、
「相手の柔道に合わせないで、自分の柔道をすること」をアドバイスし続けると同時に、
「実力はまだまだでも、せめて一分間は戦ってほしい」
というのが本音でした。

大会3日目、73kg級のハマディ・シャーメが先陣を切って登場。相手はノルウェーのマーティン選手。ハマディは、礼と同時に大きな声を出して向かっていき、何度か組み合い、相手の技をしのぎましたが、1分2秒、低い体落としで宙に舞い、一本負けを喫しました。

大会最終日、60kg以下級のアリ・ジュマが、カザフスタンのドンバイ選手に向かっていきました。これも何度か組み合い、しのいだ後、奇しくも前日のハマディ選手とまったく同タイムの1分2秒、相手の背負いをしのいだと思っていたところに、しつこくもう一度かつがれ、スローモーションのように、転がされ、一本負け。

その瞬間に、我々タンザニアチームの、「一瞬の夏」が終わりました。 
 
ところで、今回の日本行きは、世界選手権大会参加ももちろん大きな目的でしたが、それ以上に、日本で練習を積んで、それをタンザニアに持ち帰ることが大きな目的でした。ということで、大会前後約一週間ずつ、大阪在住の溝内氏の計らいで、京都府警特別機動隊、修道館、京都大学、汎愛高校の道場でお世話になりました。
 
2人の感想は、
「日本の柔道家は、小さな子供からお年寄りまで強い!」(ハマディ)
「こんなに強い人たちが世界柔道選手権大会に出られないのに、彼らより弱い自分達がタンザニアの代表になって、日本まで来られた幸運を生かせるよう、もっとがんばる!」(アリ・ジュマ)

ちなみに、ハマディは、日本での寝技の特訓で、あっという間に耳がつぶれ、柔道家の勲章ともいえるカリフラワー・イヤーとなって、タンザニアに帰ることなりました。
 
日本滞在中、彼ら2人にとって、柔道の次の関心事は「犬」でした。
 
「日本に来て、犬っていうのは、ものすごく種類がいっぱいいることに驚いた。初めは全部違う動物なのかと思った」(ハマディ)
 
イスラム教徒にとって、犬の鼻は不浄のものと位置付けられており、犬に鼻先をくっつけられたら、体を7回清めないといけないとされています。

そんなこともあって、彼らが住むザンジバルでは、犬を飼う習慣がまったくなく、犬自体も野良犬がほんのわずかいるだけなので、ありとあらゆる種類の犬が歩いている日本での、ハマディの驚きにもうなずけるものがありました。

ある日、アリ・ジュマが、ダックスフントを見てげらげら笑い出し
「なんだ? あの犬のかっこうは! さっきまであの犬が止まっているとき、座って寝ているのかと思っていたら、そのままの高さで歩き出したからびっくりした。へんてこな動物だなあ」
と言っていました。たしかに、ダックスフントって、生まれて初めて見たら、笑えるかもしれないですね。

8月に南アフリカ遠征に行ったときは、各家に防犯用兼ペット用の大型犬がいて、2人とも、吠えられるたびに閉口していましたが、日本では、
「日本の犬は、小さくておとなしいなあ。全然吠えないんだね」
と言いつつも、日本人が、犬に洋服を着せたり、頭にリボンをつけたりして、子供のように抱っこして街を歩く姿は、彼らの目には、ずいぶん奇異に映ったようです。
 
大阪滞在中は、我々タンザニア柔道チーム4人が宿泊していた友人宅のある守口市と、道場や試合会場との往復に終始する、文字どおり柔道漬けの日々でしたが、そんな中でも彼らは、日本の日常風景や日本人の様子を見るのを楽しんでおり、私もまた、2人から日本の感想や驚きを聞くたびに、新しい角度からの日本発見をしているようで、とても楽しかったです。
 
おけいはんネット(大阪の電車パス)を駆使して、自分たちで京阪電車や地下鉄に乗ってあちこちの道場にでかけるのが板についた頃、帰国のときが来ました。
 
関西国際空港に向かう車の中で、アリ・ジュマが言いました。
「もっと日本で、柔道をしたいけれど、来月のオールアフリカンゲームズに出るためには、予定どおり帰らなくてはいけない。日本で習った柔道をタンザニアに持ち帰り、もっとがんばる!」
 
ということで、我々タンザニア柔道チームにとっては、柔道一色で駆け抜けた夏でしたが、今回の日本滞在中、昨年7月マンチェスターで開かれたコモンウェルス大会、今年5月のモーリシャス国際、先月までの南部アフリカ遠征等で会った面々とのなつかしい再会が多々あり、勝敗を超えた再会の喜びを分かち合うことができたのも、世界柔道選手権大会参加に伴う大変うれしい出来事でした。と同時に、新しい出会いも多く、それぞれまたいつか、どこかの国での再会を期する握手で別れました。

ところで、この便りがアップされる頃、私たちは、オールアフリカンゲームズ(4年に1度開かれる、アフリカ大陸内のオリンピック)参加のため、ナイジェリア入りしている予定です。というわけなので、アフリカ勢とは、早速再会できそうです。

タンザニアからは、陸上、ボクシング、柔道、障害者の重量挙げの選手が参加しますが、柔道のメンバーは世界選手権大会と同じく、60kg以下級のアリ・ジュマと73kg以下級のハマディ・シャーメの2人です。この2人をはじめ、タンザニアチームの面々が、10月に、ナイジェリアのアブジャで開かれるオールアフリカンゲームズで活躍できるよう、応援していてくださいね。
 
それでは、次回の便りまでお元気で。
GOOD LUCK!!
By ムナワル

☆ タンザニア選手2名の試合中の写真は、カメラマン長尾迪氏の公式HP、Susumu's Galleryにて近日公開の予定です。
http://come.to/susumu/



NO.1「ジャンボ!」(2000.4.15)
NO.2「タンザニアのゴールデンウィークは大雨期の真っ最中」(2000.5.10)
NO.3 「ジャンボ、ベイビー! (こんにちは、赤ちゃん)」(2000.5.18)
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NO.7「日本は七夕、タンザニアはサバサバ!」(2000.7.11)
NO.8「アフリカフェの故郷ブコバ」(2000.7.16)
NO.9「アフリカフェの生みの親、TANICA社」(2000.7.16)
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No.59 「サバサバ柔道杯2003」(2003.7.21)
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