TANZANIA便り2001.5

タンザニア便り29「ミスター 2ボトルを偲んで」(2001.5.4)
タンザニア便り30「平山領事に贈る言葉」(2001.5.17)


タンザニア便り29「ミスター 2ボトルを偲んで」
ジャンボ!
お元気ですか?ザンジバルは、マシカ(雨期)の真っ最中
今年は、例年より雨が少ないとは言うものの、玉ねぎは例年どおり雨にやられて少なくなり、市場に出回る玉ねぎは、小さくて、水にあたって痛んでいるものが多い上、ふだんの3割高という状態です。毎年この時期になると、玉ねぎをはじめ、野菜が高くて痛みがち、中には姿を見せなくなる野菜もあるので、主婦としては頭の痛い季節です。 
さてきょうは、ザンジバルの名物じいさん、ミスター2ボトルのことをお話しましょう。このおじいさん、通称はホメイニ(イランのホメイニ師を敬愛していたから)。毎日夕方になると、映画館の前のコーヒー屋で、1杯のコーヒーを飲むのを至上の喜びとするイランの血を引くおじいさんでした(写真は2点とも Susumu NAGAO)。
私たちがつけたあだなは、「ミスター 2ボトル」
なぜかというと、彼の口癖は、
「わしは、若いもんには負けんぞ。わしの腕を見てみろ。若いやつらがかかってきたって、オンリー、 パンチでノックアウトさ」
だから、みんな面白がって
「どうしてそんなにいつまでも元気で強くいられるのさ?」
と聞くと、必ず
「わしの健康の秘訣はな、毎日2ボトルのミルクを飲んで、パンにバターとジャムをたっぷり塗って、果物と一緒に朝食を取ることなのさ。朝からそれだけたっぷり食べることができるやつはそうざらにはいまい」
「それともう1つ、結婚などしないことだ。女遊びなどもってのほか、女は男から精力を吸い取るだけで、女がいたらどんどん年をとってしまう。だからわしは、65の年まで結婚などしないできたんだ」
「だから見ろ、この若さを。お前なんか、オンリー ワン パンチであの世行きだ」
とこぶしを突き出し、毎日毎日、同じせりふを得意そうに言うので、いつの間にか
「ミスター 2 ボトル」となったというわけです。
ミスター2 ボトルの職業は、水道屋。いつも青いデニムの上下を着て、買い物カゴにスパナやハンマーなどを突っ込んで、何十年も使っている自転車にまたがって、ちゃりちゃり街を走っていました。
もう10年も昔になってしまいましたが、我が家の水道も、水漏れがひどくなって、ミスターに直してもらったことがあります。例の格好で、買い物かごをぶら下げてやってきたミスターは、おもむろに、籠の中から、グニア(麻袋)をほどいてくしゃくしゃになった繊維のようなものを取り出すと、水道管や蛇口のジョイント部分に、丹念にまき始めました。店には、そういう部分にまきつける専用テープが売られているのですが、ミスターはグニアをほどいた麻の繊維を、自分で手で縒りながら、蛇口にぎゅうぎゅう巻きつけるという、昔ながらのやり方を続けていました。私は、こんなゴミみたいなものを巻きつけるだけで直るのかなあと、半信半疑だったのですが、30分後、水漏れは見事にぴたりと止まりました。
蛇口にほつれた麻の繊維が、いっぱいくっ付いていて、見た目は悪かったけれど、ザンジバルでは見た目よりも実質が何より大切です。もちろん、私は、ミスターの仕事ぶりに、大いに満足しました。
「こんなもの巻きつけて本当に直るのかと思ったけれど、直るものなんですね」と言うと、ミスターは、大笑いして、いつものこぶしを突き上げるポーズを作り、
「わしに任せれば、直せない水道なんてないのさ」と言っていました。
このミスター 2 ボトル、いつもよれよれの格好で、年代ものの自転車に乗っているのに、なぜかいつも颯爽として見えました。ミスターの家族は、イランを初め、アラブ諸国に散らばっていて、裕福に暮らしています。だから、各地の家族が皆いちように、
「もう年なのだから、ザンジバルで一人で、儲かりもしない水道屋なんかやっていないで、私たちと一緒にアラブで楽な老後を送ったらどうか」
と呼びかけるのですが、ミスターの返事は決まって、
「NO」
「わしはまだ若い。水道屋としてまだまだ働けるんだから、お前らの世話になどならん。自分の面倒ぐらい自分で見る。わしを年寄り扱いするな」
「わしは、このザンジバルのマリンディで育ち、仲間もみんなここにいる。それに、わしには、夕方マリンディで飲むコーヒーもかかすことはできないからな」
フンディ(職人)としての誇りを持ち、幼い頃からの仲間を愛し、ザンジバルを愛し、そして、コーヒーを愛したミスター 2 ボトル。今も夕方マリンディに行くと、映画館の前のコーヒー屋では、幼なじみのおじいさん同士が、いつもの場所に並んで座り、毎日の恒例行事のように、コーヒーを飲む姿が見られます。ここでコーヒーを飲んでいると、なんだかミスター 2 ボトルも、またひょっこり例の格好で現れるような、そんな気がしてきます。
「水道屋として一日働いて、夕方幼馴染の連中と並んで、うまいコーヒーを飲む。それさえできれば、わしは何にもいらないのさ」
こんな口癖と共に生き、前日までいつもどおり働き、コーヒーを飲んで談笑し、誰にも迷惑をかけずに、ぽっくり死んでいったミスター。ミスター 2 ボトルの誇り高き人生に、心から乾杯。
BY MUNAWAR


タンザニア便り30「平山領事に贈る言葉」
ジャンボ! 皆さん、お元気ですか?
ザンジバルは、雨期も終盤に入りました。雨がやみ、雲が切れて日が照りつけると、降った雨が水蒸気となって立ち上り、ものすごい暑さです。
昨年は大雨続きで、モロゴロ、ムトゥワラ、イリンガといったタンザニア本土の各地で、雨のために大小多くの橋が流され、道路が遮断されるという事故が相次ぎましたが、今年は、例年に比べて雨が少なく、雨による影響も、モロゴロ地方で小さな橋が流されたということを人の噂で聞いた程度です。しかし、雨が少ないと、次に始まる乾期で水不足になるのが必定なので、もう少したくさん降ってくれないかなというのが、タンザニアの人々の本音のようです。
さて、話は変わりますが、去る4月30日、タンザニア在住の邦人のために尽くしてくださった、在タンザニア日本大使館の平山領事が、3年間の任期を終えて日本に帰国されました。
大使館の領事さんというと、なんだかとっても近づきがたい感じがしますが、平山領事は、
「私は、邦人保護が一番の任務ですから」が口癖で、誰が日本大使館を訪れても気さくに応対し、病人が来れば病院まで付き添うという感じで、見ていて頭が下がるほど親切な領事さんでした。タンザニア在住の日本人で、平山領事にお世話になっていない人は誰もいないと言っても大げさではないほどで、とにかくみんなに慕われた領事さんでした。
私たちが初めてお会いしたのは、3年前、日本で初段審査を受ける柔道の弟子を連れて日本へ行く前、彼らの日本ビザを発給してもらいに、日本大使館へ行ったときでした。
主人が、「必ず黒帯を取らせて帰ります」と告げたときに、びしっと立ち上がってザンジバルの弟子たちに向かい、「日本でがんばって、ぜひ黒帯を取ってきてください!」と大きな声をかけてくださったのが、平山領事でした。
平山領事は、沢木耕太郎と村野武範を、足して2で割ったような男前、そのきさくな性格で、日本人だけでなく、タンザニアの人々からも、名前の「ひろあき」をとって「ヒロ、ヒロ」と呼ばれ、慕われていました。ジョークが得意で、しょっぱなの自己紹介から、
「私の名前は平山です」を、「My name is HIRAYAMA. I am a flat mountain.」
「私は、フラット マウンテン、つまり、平たい山、平山」と、日本人にしか通じない(?)ジョークで、まわりを煙に巻くのがお得意でした。 
ところで、皆さんは大使館の領事というと、ビザやパスポートの発給といったことに代表される、大使館内の仕事しかイメージできないと思いますが、領事の仕事というのは、大使館の中に留まるものではありません。
ある日突然、キリマンジャロ登山中に死を遂げた日本人がいたと、地元警察から連絡があれば、翌日にはモシ地方に飛んでいかねばなりません。
タンザニア警察は、日本領事に遺体を渡せば仕事が済みますが、遺体を引き渡された側としては、そのまま遺体を放置するわけにはいきません。平山領事は、その遺体を焼き、遺骨を故人の年老いたご両親に送り届けるまでの一切を、たった一人で行ったのです。
もちろんタンザニアには、一部のインド人を除けば土葬が普通なので、日本のような火葬場なんてありません。それがどれだけ大変で、心が重いことだったか・・・。本来ならそういうことは、故人の家族の責任ですが、年老いたご両親は、息子の訃報にもタンザニアまで来ることもできず「ただただ、息子の骨だけ送り返してください」と繰り返すばかりだったそうです。
 ザンジバルでは、こんなこともありました。日本人パスポートを持った女性グループ5人が、ザンジバル空港で不審尋問を受け、日本人かどうか確認してほしいという連絡が入り、そのときも平山領事は、電話を受けてすぐにザンジバルに飛んできました。
厳しい尋問の結果、彼女たちは全員中国人で、彼女たちが所持していた日本パスポートは、世界各地で盗難されたものだということが判明しました。問題のパスポート、写真だけは全部彼女たち一人一人の写真と刷り替えられていたのですが、前のように写真を貼り付ける形式ならいざ知らず、今のパスポートの写真は、刷り込みになっているはずなのに、一体どうやって偽造するのでしょうね。ちなみに、彼女たちは約3週間ザンジバル警察に拘置された後、本国に強制送還されたそうです。
こんな偽造パスポート事件があるかと思えば、残留孤児として中国にいて、大人になってから日本国籍を取ったため、日本語がほとんどできない日本人が、ダル・エス・サラームの空港で、偽造パスポートの疑いをかけられ、逆にその人を救出したこともあったとか。
その人は、平山領事が駆けつけてくださらなかったら、一体どうなっていたのでしょうか?
夜中にダル・エス・サラーム在住の日本人の家で、シャワールームのボイラーが爆発するという騒ぎのときも、真っ先にかけつけたのも平山領事、昨年10月に行われたタンザニアの総選挙では、選挙監視団の一員として、内陸部の小さな街まで行っておられたのですが、ザンジバルの不穏さを心配し、ザンジバルに残っている私たちに、毎日のように電話をして、安否を気遣ってくださったのもやはり、平山領事でした。
そして、私たちが、タンザニア経済発展のために、タンザニアの製品を日本に輸出して、タンザニアに外貨をと、アフリカフェに着目したものの、どこに話を持っていってよいかわからなかったとき、「それならば、JETROに行けばよいでしょう」と、JETRO(日本貿易振興会)を紹介してくださったのも、平山領事です。
その後、JETROとともにタニカ社と話を進め、このアフリカフェプロジェクトが始まったのですが、この平山領事の一言が、このアフリカフェプロジェクトが実現に向かう第一歩となったといっても過言ではありません。
ちょうど3月に一時帰国されていた平山領事は、遠い幕張のFOODEX JAPANにも、来てくださり、
「タンザニアで見慣れているアフリカフェが、こうやって日本の大会場に並んでいると、なんだかうれしいですね」とおっしゃっていました。
「もっと、タンザニアにいたいですね」
「私は、この国と人が好きです」
「日本に帰っても、自分が関わったタンザニアが発展していく姿を見守っていきたいです」と語る平山領事、もちろん、まわりも平山領事の帰任が延期されるのを切望していたのですが、ついに帰国の日が来てしまいました。当日、ダル・エス・サラームの空港には、近年で一番多くの邦人が集まり、心から帰任を惜しむ人々の表情が、平山領事の人徳を物語っていました。
最後に、平山領事、3年間、私たち邦人のために、本当にありがとうございました。平山領事の日本でのますますのご活躍とご健康を、雨上がりの真っ青な空の下よりお祈りしております。



ASANTE SANA NA TUTAONANA
BY MUNAWAR


NO.1「ジャンボ!」(2000.4.15)
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