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「十七字の戦争」 田村義彦著 かもがわ出版 を読んで

幼いころ、なぜかしら、「てっきらいしゅう、およそごひゃっき」
という言葉を覚えて、意味はわからないのですが、ごろが面白くて繰り返していたことがあります。
母が、「その言葉は、ふざけてつかってはいけないのよ」といいました。
そのときは、なぜかはわかりませんでしたが、母が悲しそうな顔をするので、とりあえず連呼するのをやめました。
小学校の高学年になったころでしょうか、それが、「敵機来襲、およそ五百機」という戦争の言葉だったとわかりました。
「十七字の戦争」を読んで、そんな記憶がよみがえり、五七五の川柳に託された、戦時下に生きた人々の心が、長い年月を経ても、そして、戦争を知らない世代の私にも響きました。

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この本には、1942年1月から1945年8月の終戦、そして終戦直後まで、川柳2誌上で公表された中から選ばれた、1000句という膨大な川柳が掲載されており、その中には、当時の庶民の様子が戦局の移り変わりとどんぴしゃで反映されていました。
サブタイトル、「川柳誌から見た太平洋戦争と庶民の暮らし」のとおり、庶民のよんだ川柳からは、歴史の表舞台に出てくる戦争の勇ましさや美化ではなく、検閲をくぐりぬけて、なおかつ時世を正しく伝えたいという川柳家たちの心と、そんな厳しい戦局の中にでも尚残る、日本人らしい、粋なユーモアがありました。

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1000句(こんなに川柳を拝見したのは、生まれて初めてです!)の中から、特に心に残った句をご紹介します。
「マラリアも、蛍も同じ闇を飛び」
「椰子の木が、いつしか松にかはる夢」
私が住む常夏の島国ザンジバルも椰子の木が茂り、マラリアを運ぶハマダラ蚊もいますので、風景が目に浮かびますし、マラリアの怖さもわかります。
しかし、戦争のないその風景はおだやかそのもので、南方戦線の悲惨さは想像すらできません。
昔々に観た硫黄島の記録映画や、「われレイテに死せず」という本などで読んだことがよみがえってきました。
「遠足も行軍といふ時代なり」
今はコロナ禍で、日本の子供たちも、遠足に行ける行けないで悩ましい年となりましたが、行軍と呼ばなくてもよいのは平和な世の中といえるのでしょうね。
「なきがら(亡骸)へ いまきた便りを 読んでやり」
ただただ涙が流れました。

「柿熟す 下に四五人 疎開の子」

疎開の子供たちの様子を詠んだ句もたくさん紹介されていました。
町で育った母が、疎開先で草鞋を履いて遠い学校に通った話を聞いたのを思い出しました。
母が疎開先から無事に帰れたからこそ私がいます。
「福井県を除く情報そこに住む」
ラジオなどで、情報のない地域は「・・・を除く」とアナウンスされたそうです。
アナウンスされなかった福井県に大切な家族がおられた人たちの心配が伝わってきます。
しかも、本の中でこの川柳に出会ったときに、バラカでは、北陸初のティンガティンガ原画展を、福井県(福井市の西武福井店)で行う直前でした。
なので、このタイミングで見つけたのは、偶然ではなく、きっと私にとっては必然と感じた一句でした。
「南瓜で今年は簾要らず」
私の父が、食卓にかぼちゃの煮物があると、
「戦時中に、一生分の南瓜を食べたから、南瓜は食べたくない」
と言っているのを思い出しました。
「どの駅も死んでくるぞの旗の波」
勝ってくるぞと勇ましくのフレーズが、死んでくるぞ・・・になってしまったというこの句は、終戦直前の句だったそうです。よくこの句が当時の検閲に通って印刷されたものだと感じましたし、すでにそのような思いでの出征になっていたのが事実だったのでしょう・・・。

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「川柳と民話の共通点」
俳句とちがって、季語もなくていいんだよというゆるいルールの中でありながら、
五七五の短い言葉に、よいことでもそうでないときでも、世相を伝えるという役割を担いながら、かつどんなときでもユーモアを忘れずに表現していこうとする川柳には、私の長年かかわっている民話の世界と共通項が多いことに気づきました。

私の民話研究の師であり、児童文学作家であられたかつおきんや先生は、民話とは、けして歴史の表舞台に出てくるのことのない市井で暮らす庶民たち、あるいは貧しき者たちが、世に訴え、子に伝える手段として語ったものである、その中には、世相が反映され、時には圧政を訴えながらもユーモアの中で語られる だからこそ、その庶民の語りの奥にある真に訴えたいもの、伝えたいこと、変えていきたいこと、残していきたいことを理解しようとすることが、民話を研究をする意義だと教えられました。
その「民話」を「川柳」とおきかえてもぴったりくることが多いことに気づいたのです。
とはいえ、五七五の中に時世を反映させて詠む川柳は、目の前に聞き手がいて語るのと違って、たった十七字に気持ちを凝縮して託すわけですから、そこには言葉に対してより鋭敏さを求められる世界なのでしょう。

十七字の戦争(中央)を囲んで、民話研究の師かつおきんや先生の最後のご著書(上の2冊 金沢の歴史を掘り起こし、児童文学として遺されています)と、アフリカの民話集とで、記念写真、パチリ!
「十七字の戦争」       (かもがわ出版)
「先人群像七話:三百年前の金沢で」(能登出版)
「先人群像七話:三百年前の金沢 第二集」(能登出版)
「アフリカの民話  ~ティンガティンガ
・アートの生まれ故郷タンザニアを中心に (バラカ)
「アフリカの民話集 しあわせのなる木 (未来社)
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民話のことになると、ついつい熱く語りたくなってしまうので、話を「十七文字の戦争」に戻しましょう。
終戦から1か月後、昭和二十年九月十五日に書かれた、「川柳きやり」主幹 村田周魚さんが、同誌に寄稿する川柳家さんたちにむかって呼び掛けている言葉がとても心に残ったので、抜粋します。
『新日本の川柳、それをむづかしく、堅苦しく考へる要は無い。
平和愛の川柳、言ひたいことをずばり十七字にまとめること、それでいゝのである。
眼に触れたこと、自分の感じたことを素直にぶちまければいいのだ。・・・
巻脚絆を脱ぎ戦争によって押し込められてゐた心を矯め直し、平和愛好の川柳道を自由に歩かうではないか・・・
物の不足を心の富裕で補ふ心構えを川柳によって堅めやうではないか。』

「平和愛好の川柳道」・・・茶道、華道、柔道などと同じ「道」という言葉が使われ、戦後の日本を「新日本」と呼び、これからの川柳道で向かう方向を示唆されています。
きっとこの呼びかけに、ますます川柳道を究めていこうと思いをあらたに言葉を磨き、情勢を見渡した方々が大勢おられたと拝察します。

「物の不足を心の富裕で補ふ心構え・・」
戦後の復興を経て、富裕層とまではいかなくても、中流であると認識する層が増え、物質的に富んできた日本。
昭和の終わりに日本を出て、アフリカで暮らすうちに、日本は平成という時代が終わって、令和となった現在、客観的に日本をみると、「心の不足を物の富裕で補ふ」ようになってしまっているのではないかと感じることが多いです。
コロナ禍が起き、日本だけでなく、どの国の人も世界を意識せざるを得ない時代がきています。今から75年以上前の終戦直後からを「新日本」として、あらためて「新日本の平和」を詠んで進んできた川柳道、世界全体の平和を考えながら詠むべき時代がきているような気がします。
もちろん、平和を考えながらの発信は、川柳に限らず、人それぞれのやりかたでよいのでしょうが。
そんなことを、戦時中に生きた先人の川柳から教えらているような気持になる本でした。
膨大な資料から1000句に厳選し、戦局とともに時系列でわかりやすくまとめくださった著者の田村義彦さんに、感謝しながら読了しました。
多くの人に読んでいただきたい本であるとともに、私にとっても、これから何度も読みかえす本になりそうです。
5年に1度の大統領選挙が近づいているザンジバルにて
島岡由美子
「十七字の戦争」
田村義彦著 かもがわ出版

「「十七字の戦争」 田村義彦著 かもがわ出版 を読んで」への2件のフィードバック

  1. この本の著者田村です。かもがわ出版山家さんの出版ネッツMLへの投稿で知り、拝読、丁寧にお読みいただき、さらにご紹介いただき、まことにありがたく、感謝いたします。

  2. baraka_tanzania

    田村義彦さん、ジャンボ!(こんにちは)
    まさか、ご著者ご本人からコメントいただけるとはおもってもいませんでしたので、びっくり!&恐縮ですが、とってもうれしいです。 すばらしい本を書いて、人生の後輩である私たちに残してくださりありがとうございました。   戦時中のことを振り返るだけではなく、今を生きる中で生かすための、学び多き本だということも感じています。

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