1945年8月6日に原爆投下され、75年間は草木は生えないと言われた広島の焦土、その年の9月に咲いたカンナの花は、当時の人々の心を励ましたそうです。
日本で夏の花として定着しているカンナは、もともと熱帯の花なので、アフリカ各国でも見られます。
今年は、ケニアのナイロビ郊外でひっそり咲いていた赤いカンナに、戦争のない平和な世界になりますようにと祈ります。
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<ひめゆりの塔>
これは、昨年、ザンジバル野球チーム13人と一緒に訪れた沖縄のひめゆりの塔(右横の小さい塔)と慰霊碑。
もう日本軍から放任するので勝手に逃げろ、つまりは軍隊から放り出されたのです。そこからは、ひめゆり部隊はちりじりになって、沖縄の一般市民と一緒になってアメリカ軍の攻撃から逃げ惑う中で、大勢が命を落とされました。
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この奥にある、ひめゆり平和祈念資料館資料館では、奇跡的に生き残ったひめゆり部隊の方が語ってくださるビデオを視聴し、展示されている当時の写真や手紙、手記や遺品、ガマ(防空壕や野戦病院にしていた自然洞窟)の再現などを目にして、胸が苦しくなりました。
ひめゆりの塔の後に行った、戦没者を追悼し、平和を発信する公園平和祈念公園
いつも陽気なザンジバル@タンザニアの面々も、さすがにひめゆりの塔に着いたとたんに、いろいろ察したのでしょう。とても神妙で真剣な面持ちで見て回っていました。
そして、「日本のような安全な国でも、かつて戦争があって、自分たちと同世代やそれより若い女生徒たちが野戦病院に駆り出され、悲惨な亡くなり方をしたということがあったんだということに驚き、ショックを受けたけれど、来てよかった、知ることができてよかった」と口々に言っていました。
日本のことだけでなく、他の国の歴史も知るのは大切なことですね。
名古屋大空襲
ところで、私は名古屋出身ですが、戦時中、三菱重工などがある軍需工業都市だった名古屋も、アメリカの攻撃目標となり、特に戦争末期には焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が幾度も行われ、8000人近い死者と一万人以上の負傷者、被害戸数は13万5千戸以上と言われています。戦争で、名古屋駅も、名古屋城も焼かれました。 名古屋の中心街の道路(100メートル道路と呼ばれる)まっすぐでえらく広いのは、この空襲で、慶長年間以来の碁盤割の町並みをはじめ、市内の主だった建物の大半が破壊され、焼け野原になってから、復興整備されたからだということを聞いたことがあります。
戦争の犠牲者は人間だけでなく、戦前から東洋一の動物園と称され、市民の憩いの場だった東山動物園の動物たちも、爆撃されたり、猛獣が逃げると危険という理由で殺傷処分になったり、エサ不足などで死んでいき、ポツダム宣言が出され戦争が終わった時に残っていたのは、痩せ衰えたゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、ハクチョウ1羽だけだったそうです。
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<女学生も、学徒動員で軍需工場に>
当時女学生だったおばは、大曾根に住んでおり、学徒動員で軍需工場で働いていたので、直接名古屋大空襲を体験し、命からがら生き延びた一人でした。大曾根界隈には、国内航空機生産の拠点だった三菱重工業名古屋発動機などがあり、空襲は何度も繰り返しおこなわれたそうです。
おばが、空襲の後、おそるおそる表に出たら、街路樹の木々のあちこちに、吹き飛ばされたヒトの手足がぶら下がっていたとか、軍需工場の機械は一斉に動いて一斉に止まる方式なので、慣れない作業に、学徒動員の女学生たちは何人も機械に指や腕まで巻き込まれて大けがをした人たちがたくさんいた、女学校の思い出は戦争と学徒動員、幼馴染もたくさん家を焼かれ、亡くなってしまった・・・という話を、ぽつり、ぽつりとしてくれたことがあります。祖父も大曾根に住んでいたので、幼いころから何度も通っていた大曾根界隈でそんなことが起きていたなんてと、とても驚いたことを覚えています。 このおばと年が離れていた私の母は、当時まだ小学生だったので、学徒動員に出ずにすんだかわりに、親元を離れて岐阜の山奥で疎開生活を送っていたそうですが、そのおかげで名古屋空襲から免れることができたそうです。
名古屋城や栄で見かけた傷痍軍人
私が幼いころには、名古屋城や栄に行くと、戦争で手や足を失ったり目が見えない傷痍軍人の方々が着古した軍服を着て、何も話さず、ただただうつむいて座っている姿がありました。幼少期のことなので、自分ではどんな時代を生きているのかはわかってませんでしたが、傷痍軍人の方々は、戦地で怪我を負って大変な思いをして日本に帰ったものの、体を痛めて働くこともできず、国からの補償もなかったり、びびたるものだったりして、生活に困っておられたのでしょう・・・
<敵機来襲、およそ500機>
幼いころの遊びには戦争ごっこというのもあって、私自身、まったく意味がわからないまま「テッキライシュウ オヨソ ゴヒャッキ」という言葉を聞き覚えていました。こどもたちは、手を丸めて目に当てて、望遠鏡をのぞくまねをして、壁や木のところに隠れていて、遠くから人が来ると「テッキライシュウ オヨソゴヒャッキ」というのです。ただそれだけで、そこから鉄砲を撃つ真似をすることもないし、戦うわけでもない、ただの言葉遊びのような戦争ごっこでした。
でもそれは、今になれば、「敵機来襲、およそ500機」という言葉であり、戦時中に何度も名古屋の空を飛びまわっていたB29のことを指していたのだと思い当たります。特に名古屋城が炎上した1945年5月14日の北部市街地への空襲には、最大472機が来襲、5月17日の南部市街地を狙った空襲では、457機が来襲した(総務省サイトより)そうですから、まさに「およそゴヒャッキ(500機)だったのです。 空から無差別爆撃を受けて逃げ惑うか防空壕や建物に隠れることしかできなかった市民の姿が、戦後、すでに1970年代に入っていても、子どもの遊びに反映されていたのですね。
小学校で書道をおしえてくださった年配の先生は背筋がビシッとのびていて隻眼、美しい楷書の手本を書いてくださいました。男子から、戦争帰りの先生だと聞きましたが、戦争の話は一言もされませんでした。
私が子供時代を過ごしたのは、日本が高度成長時代に入っていきながらも、まだ戦後を色濃く残す時代でもあったのだとあらためて感じています。
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ひめゆり部隊の方々に教えられたこと
今まで名古屋空襲のことなど話題に出したこともなかったのですが、沖縄のひめゆりの塔に併設された平和祈念資料館にあったひめゆり部隊の方の手記の中に、
「君たちは何が何でも生き残って、このような悲惨な事実があったことを後世に伝えなさい」と最後まで言い続けた先生の言葉があり、ビデオの中で語り部の方もそのことをおっしゃっていて、はっとしました。
戦争を知らない世代の私たちには、実際の戦争体験を語り伝えることはできませんが、人生の先輩方にお聞きしたことや、本を読んだり、その土地に訪れて知ったことなどを、他の人に伝えることなどはできるはず。
また、そうしていかねばいけないんですよね。
大切なことを誰かに語る、伝える、その対象は次世代に限らず、まずは身近な人からでいいのかなと思いつき、ひめゆり部隊の生き証人の方々の言葉に感化され、私も自分が育った名古屋で周りの人から伝え聞いたことを記してみましたが、きっと日本全国それぞれの土地で、戦争の爪痕が残り、語られていることでしょう。
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ひとたび2023年に戻って世界を見渡すと、長びいているロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとパレスチナなどなど、今でも爆弾が飛び交う日常のある暮らしをしている人たちがいます。自分に今があることを当たり前と思わずに感謝していきるだけでなく、そういった事実からも目を背けずに、平和構築について考えていきましょうね。
ヒロシマ、ナガサキの原爆の日が過ぎ、終戦の日が近づく2023年夏、ザンジバルの真っ青な空の下より、日本と世界の平和、どの国の子どもたちも、笑顔で安心して学校に通える世界になりますようにと心からお祈りします。
2023年8月 島岡由美子
☆焦土の広島の地に咲いたカンナの写真パネルは、長く広島平和記念館に展示された後、現在は須坂市にあるメセナホールに展示されているそうです。
須坂市のサイト下記のURLからも、カンナの写真パネルを見ることができます。
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https://www.city.suzaka.nagano.jp/…/20171017_kannachan.pdf
ザンジバル野球チームの沖縄での野球交流2022秋の様子は→こちら『ザンジバル野球チーム、初来日~沖縄での野球&文化国際交流☆愛弟子同士の友情と審判セミナー』です。